野菜と向き合う体力

人生の随所で「お父さんに似てきたね」と言われる。

 

生まれて数時間後から20年以上たった今日まで、親戚が集まると必ず一度は言われてきた言葉だ。

 

双子がお互いを識別できるのと同じように、私自身は一切そんなことを思ったこともない。

 

思春期に差し掛かり、言われる頻度は飛躍的に増えた。私はよく知る人間に自分自身が例えられることで自分の人生を固定されるような気さえして、父とは違う人間であろうとした。

 

市役所に勤め、3人の子供を育て、音の出ないパソコンを自作する父の姿は、思春期の少年にとってお世辞にも理想の大人とはほど遠かった。

 

「父とは違う人間になる」という思いは「個性の獲得」という目標と同化し、おもちゃの楽器で音楽をやり、右翼の友人と柴又に行き、中身のないポエムでノートを埋めた。

 

その努力が完全に無駄であったことがわかったのは少し前のことだった。

公務員の試験を進むにつれ市役所にだけ受かり、とっさに選んだ食べ物は父の好物で、太ると「顔立ちも似てきた」と言われる。

そのたびに私は逃れられない父の呪縛を思い知るのだ。

 

このままでは私は父より幸福になることはできない。

私の胸中でこのことが何度も浮かんでくる。ここまで他人をほとんど好きにならずに生きてきた私が、父のように自分自身より赤の他人を優先し、別の人間を新たに作り出してしまうほどにまでなれるだろうか。今の私にはわからないが、将来もしそうなったら今の私は苦しむだろうな、と思う。

今の私が幸せであるためには、他人に愛着を持たないこと、そして顔立ちを父に似せないこと の二つが必要である。

全ては今の私自身のために

 

 

 

というわけで最近野菜を食べてます。痩せてた頃から野菜は食べてたんですけど、頻度を落としちゃってたのと外食を増やしてしまっていたことで太ってしまいました。

どうせなら楽しく続けたいと思い、近所のコンビニに売ってるサラダを食べ比べてみようと思い、数日食べてみたのですが、一週間くらいで感想を言えるようなおいしいやつは食べつくしてしまいました。今はモブみたいなサラダを食べています。

そこで思ったんですけど、最近100円くらいのでかいサラダを食べようと思えなくなってきていました。

前まではおなかも膨れるし安いしいいやと思って好き好んで食べていたのですが、最近は外食でおいしいものいっぱい食べるようになったせいで「サラダで満腹になるの…?」と思ってしまって気が進まないんですよね。野菜と向き合うための体力が衰えてきている。

 

明日からは100円のでかいサラダを食べるぞ。グリーンスムージーも飲むぞ。